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2015/07/24

コズミック・ディスクロージャー:秘密の宇宙プログラム(SSP)インサイダーがビデオデビュー!

by David Wilcock 2015年7月22日 11:33pm
(以下、要約)



秘密の宇宙プログラムのインサイダー、コーリー・グッドさんの暴露インタビューが動画で公開された。いくつかに分割されているが最初の4本がリリースされた。彼が行った数々の回答(watch him field a variety of questions
 )に合わせて、自分の目で確かめてほしい。見逃さないでくださいね。

ワクワクする変化が訪れようとしている

スノーデンによる暴露の前までは、みんながデジタルライフを安全にセキュアに体験していると思っていた。が、今や監視のための装置、インフラは至るところにあり、することのすべてがデータマイニングされ、蓄積されていることはみんなの知るところである。



アラブ人によるテロを防ぐためか?NSAの職員があなたの性的な生活や行いのデータ・記録を他の職員に手渡すためか?説明責任は彼らにはあるのか?
(などなど、疑問文が続く)

コーリー・グッドが言うことが確かならば、すべてが単に氷山の一角であることがわかる。グッドが言うことは長年にわたって登場したインサイダー達の証言と一致している。

SF映画は他の何にも増しておおくの真実を隠し持っている

軍産複合体は、SF映画で見るような先進技術を使って太陽系やそれよりもっと広範なエリアを植民化した!

反重力? ☑️
フリーエネルギー? ☑️
スターゲート・トラベル?☑️
タイム・トラベル?☑️
物質化装置?☑️
エネルギー医薬品?☑️
ESP(超感覚的認識力)とテレキネシス増幅装置?☑️
超現実的仮想現実製造「holodecks」?☑️

私たちの想像力が唯一の制約!

上記のテクノロジーは現実のものであって、唯一私たちの想像力だけが制約になっている。まもなくこうした秘密の牙城は打ち砕かれ、これらの知識と力に私たちがアクセスできるようになる。

希望とは非合理的なものではなく、導入・採用された展望なのだ。それは宇宙の性質をわかっている人にとっての果実である。

そしてこれはもっと巨大なゲームチェンジの一コマでしかない

これらの技術的先進性は、おおくの人に起きている意識の進化をもたらしている大いなるエネルギー変化の一つの側面にすぎない

これは凄いことなのだが、おおくの人はデータを分析・学習することなく簡単な結論に飛びつきやすい。

科学的データ・証拠も豊富にあるので、いわゆる「反駁・論破」(DEBUNKと呼ばれる行為)が不可能なくらいである。

重箱の隅をつつくような真似をする人はいるが、しないだろう。

パズルのピースについて、ウィルコックさんの自作の(例: The Synchronicity Keyなどover 130 episodes of the Wisdom Teachings video program. の紹介が続く)

そして、今回、インサイダーの中のインサイダーであるコーリー・グッドさんの一連のビデオがCosmic Disclosure.としてリリースされることになった。

「政府は嘘をつけない」という懐疑論者の主張について。それはナイーブな発想。マンハッタン計画には13000人が雇われたが一切公表されることはなかった。広島と長崎に投下されて始めて公の知るところとなった。

マンハッタン計画は高度に「区画化」されていたため、成員たちは一体自分が何をしているのかを把握できなかった。

人々を一列に並べて管理するために、催眠的な話術が日常的にプロパガンダ・ポスターで採用された。



(マンハッタン計画についてのより細かな解説が、リンクと共になされる)

そうした中で、UFOに関しての情報や質問は一切なされないという現状がある。

そこで今回のビデオが出たというわけ。
52.5時間分のエピソードに仕上がった。

最初の4本のうち、最初の1本はYoutubeで見れる。二本目はここで見れる(The second video is free for all on the Gaiam site.)。三本目四本目は99セント(最初の一ヶ月だけ)で見れる。

メンバー登録が必要。PayPalで支払える。動画を保存することも可能。
(そして、記事の終わりまで、宣伝。バズ効果もあったようでそれの紹介もある。)

2015/07/18

秘密の宇宙プログラムの一環。超光速のタキオンドライブを使った恒星間宇宙館。

http://exopolitics.org/secret-interstellar-spacecraft-use-superluminal-tachyon-drives/



超光速での恒星間旅行が可能なタキオンドライブを用いた宇宙艦隊が秘密裏に造築されている。20年間にわたって秘密の宇宙プログラムに従事してきた内部告発者が明らかにしたことからこの驚くべき事実が結論として出てきた。コーリー・グッド(Corey Goode)は6年間秘密の宇宙船造築に従事してきたと述べる。そのプログラムでは、ドイツの有名な理論物理学者で超光速粒子の存在を提起した人間にちなんでのちにタキオンと名付けられた物質を用いた恒星間旅行を可能にしたという。

4月に行われた電子メールでのインタビューの中でグッドは、ソーラーWardenと呼ばれる秘密の宇宙プログラムに従事するようリクルートされたことを明かした。それは当初はアメリカ陸軍によって立ち上げられた。「ソーラーWardenはもちろんの話だが当初は陸軍のプログラムとして旗揚げした。のちに空軍が関与するようになった。」これに続けて、ソーラーWardenは軍事・科学探査用の宇宙船を保有していて、後者のとある事業に従事した、と彼は続けた:

「研究用航空機の事業(ASSR(補助機関に特化した宇宙探査
 )と”ISRV”(恒星間クラスの機関=アーノルド・ゾマーフェルト)をあてがわれたにすぎない。ほんの6年とちょっとを超える期間だった」

アーノルド・ゾマーフェルト(1868-1951)というドイツの理論物理学者にちなんで名付けられた当事者が言うところのSolar Wardenプログラムに属する宇宙船事業にグッドが従事していたというのは一見すると奇妙かもしれない。自らの死後自分にちなんで米陸軍がつくりだした秘密のプログラムの航空機の名称が物語ることは明らかにゾマーフェルトはなにかとてつもないことを達成していたに違いないということだ。

アーノルド・ゾマーフェルトは歴史上ほかの誰よりも多くのノーベル物理学賞受賞者を指南していたことで知られる。これは確かに大きな功績だが、自分にちなんだ恒星間クラスの宇宙船、それも別の国に属する宇宙船がうまれるほどではないだろう。ゾマーフェルトは、後に「タキオン」と名付けられることとなる超光速粒子の存在を提唱した最初の人物でもあった。理論物理学におけるタキオンが歩んだ学術的な経緯の要約がここで読める:

   タキオンは、光を超える速さで運行できる想定上の粒子である。タキオンという名は最初物理学者アーノルド・ゾマーフェルトにより提唱され、ジェラルド・ファインバーグによって名付けられた。タキオンという名はギリシア語のタクスにちなんでいる。それの意味するところは「迅速な」である。タキオンには不思議な属性があり、エネルギーを消失すると速度を得るのである。結果、もしエネルギーを獲得すると速度は下がる。タキオンが実現する最低速度は光の速度である。

1910年にアルバート・アインシュタインとゾマーフェルトの共同の思考実験で、理論上の装置を用いた後に”tachyonic antitelephone”と呼ばれる実験がなされた。

   tachyonic antitelephone(タキオン反物質電話?)は理論物理学における仮説上の装置である。ある人の過去に信号を送ることができるとされる。1907年にアルバート・アインシュタインは、いかに超光速の信号が因果のパラドクスへと帰結するかという思考実験をプレゼンした。1910年にアインシュタインとアーノルド・ゾマーフェルトによって「過去へとテレグラフを送る」方法であると描写された。

タキオン装置が利用可能な宇宙船であれば、超光速に達して「過去へとテレグラフを送る」ことが可能となる。これはつまりアインシュタイン-ゾマーフェルトの「タキオン反物質電話」の考えに基づくタキオン装置ならば恒星間の運行を可能にするということだ。光年で測られるほどの距離をその宇宙船ならば旅行でき実質的に「過去へとテレグラフを送られる」。つまり目的地へ向けて出発する少し前の時間へと。このことは以下のリメリック(五行戯詩)で丁度よく言い表せる:

   ブライトという名の若い娘がいた
   彼女の速度は光速以上
   ある日彼女は旅たった
   相関経路で
   そして前日の夜に戻ってきた

「既知の物理法則との整合性がないので超光速粒子は存在し得ない」と大抵の物理学者は信じている一方で、グッドの告白はそれとは逆のことを提起している。彼が言うところの恒星間に関するアーノルド・ゾマーフェルトにちなんだ名称の事業への従事は、タキオンのドライブエンジンが開発され現在では使われていることを促している。

グッドの目撃談をサポートする多くの状況証拠がある。さらに第二の目撃者が、自身の秘密の宇宙プログラムでの経験をまとめた要約のリリースを許した。だからそれはグッドの驚くべき証言をサポートするものである。グッドが従事したタキオン(つまり反物質電話)ドライブは実際秘密裏に隠匿され、恒星間宇宙船について世界に公表されるべきことが山積していることの証左ではないだろうか。

©Michael E. Salla, Ph.D.

2015/07/13

神々しい宇宙的な人間

http://www.armageddonconspiracy.co.uk/The-Celestial-Human(1897059).htm


神々しい宇宙的な人間

宇宙は人でしょうか。フィジカルな身体(r > 0で表される次元性を持った宇宙の側面)を持っているのでしょうか。そして心(r = 0で表される次元性のない宇宙の側面)を持っているのでしょうか。身体とこころを持っている人間が「マイクロコスモス」であるならば、文字通り宇宙規模の身体とこころを持つ「神々しい人間」は <<マクロコスモス>>でしょうか。

「下にあるものは上にあるものと同じようなもの。上にあるものは下にあるものと同じようなもの。ユニティの理解にとってはそういうもの」
これは古代の叡智を表したものです。「エメラルドタブレット」からです。

もしかすると、r > 0の物理宇宙は宇宙の頭脳として想像できるかもしれません。月、惑星は個別の脳細胞で太陽系は脳細胞が房状になったもの、銀河は頭脳の主だった構造、という風に。小惑星、隕石、恒星間の屑の類のすべては死に瀕したまた死んだ脳細胞の残留物です。星の光、宇宙線、ビッグバンの背景放射。これらは宇宙の頭脳を駆け巡る電気信号で、宇宙のプラズマボールのようにライトアップするものです。ブラックホールについてはどうか。各銀河はその中心にある超巨大なブラックホールによって体系付けられて制御されています。崩壊した太陽から生まれたその他の何百万というブラックホールは宇宙の中にくまなく散りばめられています。各ブラックホールは - サイズは何であれ - その中心にr = 0のシンギュラリティを有しています。

これらシンギュラリティは次元性のある存在の内側にはありません。空間と時間の中にはいないのです。物理宇宙に開いた穴であり、r > 0の宇宙を r= 0の宇宙にリンクさせ、頭脳をこころにリンクさせているのです。ブラックホールの数と同じぐらいにシンギュラリティが存在する、と信じ込まされることは容易ですが、高レベルの洞察によってこれらさまざまなシンギュラリティは実際は一つで同じものであると、一つの絶対的シンギュラリティが、存在のまさに r = 0という側面が、空間と時間の外側にあるのだ、ということが明らかにされるのです。空間と時間の特徴のどれをも欠いた側面すなわち永遠のワンネスが明らかにされるのです。それは「どこにもあって、どこにもない」のです。ブラックホールのシンギュラリティは出入り口として考えられるでしょう。あるいはr > 0へのポータルとして、物理的な宇宙の頭脳を制御する単一の「普遍的マインド」へのポータルとして考えられるでしょう(r = 0 がr > 0を統率します、ちょうど私たちのこころが身体を統率するのと同様です)。私たちの惑星は宇宙の頭脳の一つのノードです。「普遍的マインド」に喚起されているノードです。生命が地球上で進化したのはランダムな事故だったのか、それとも普遍的マインドによって発生しデザインされたできごとなのでしょうか。

宇宙にハイヤーセルフとロウアーセルフがあると想像してください。私たち同様、宇宙は長くて厳しい旅を続けているのです。グノーシスを求めて。ですが次のことを考慮してください。もしも、遠い昔に、宇宙はグノーシスを獲得することに成功していたのなら?ハイヤーセルフに到達していたら?可能な限りの完全な自己実現を達成していたら?存在が表現できる究極のハイヤーセルフ - 宇宙のアポテオシス - を完了していたら?どうでしょう、それは神についてのしっくりくる定義にはならないでしょうか。それ以上の地点はなく、それ以上へと宇宙が志すようなステージがないことになります。まさに存在の最終到達点です。「絶対的最高潮」であり弁証法の終結点、進化という努力の論理的結論なのです。

だがその最終的最高潮はおそらく未来に存在しているでしょう。私たちはもしかすると弁証法的進歩のカギを握る一部であり、普遍的な完全を現実のものとするであろう存在なのかもしれません。おそらく私たちは神を創り出しているのでしょう。そして私たちは今はおそらく宇宙のロウアーセルフ - デミウルゴス - の囚われの身となっているのでしょう。

私たち - 人類 - は神の御姿に似せて作られたと言われています。彼がマクロコスモスで私たちはミクロコスモス。ですが目下、私たちが鏡で見る姿は恐らくデミウルゴスの反射体でしょう。それでも彼は然るべきルートで弁証法的に超越されてゆくでしょう。

星々を見るとき、私たちは神聖な者の発光する輝く身体を見ているのでしょうか、それとも頭脳でしょうか。r = 0は聖霊(Heilige Geist)でしょうか。ロゴス(ことば)でしょうか。神のマインドでしょうか。そしてr > 0 はCorpus Dei -神の身体 - でしょうか。

私たちの心 - 人間一人一人の心 - は神の「脳細胞」の一つ一つです。神はスーパーマインドです。オーバーマインドです。宇宙の地的存在のすべての心を包括する「絶対意識」です。

個人の知性を結合できるとしたら人類は何が達成できるでしょうか。想像してください。人間の心が集合的な「ヒューマンマインド」に貢献したら何が達成されるでしょうか。想像してください。およそ65億の心を包括している「知性」にどのような問題が抗えるでしょうか。インターネットは意識であると想像してください。いったいどれだけの知識を持ち、使い放題にできるのかを想像できますか。

禁じられていない全ては強制的です。まだ目に見えていない潜在的状態の全てを宇宙が究極的に顕現することが可能であれば、宇宙はそうしようとします。進化の最終地点がいわゆる神であるなら、神は禁じられていないばかりでなく、その出現は強制的です。宇宙は可能な限りの最大限の完全を達成することができ、そうしなければならず、そしてそうするのです。その最高潮が神です。

地球において数十億年前のケミカルスープが潜在的に全てをその途上でいつの日かレオナルドダ・ヴィンチ、アインシュタイン、ニーチェ、ピタゴラス、ヘーゲル、ライプニッツ、シモンマガス、他すべての人類史に輝いている諸々の個人を生み出すことになる可能性を含んでいたのです。そしてまた未来においてはさらに多くの潜在性の顕現が待ち構えています。同様にして宇宙の星屑が発光するスパークの中に、地球が達成したのと同じような潜在性を宇宙規模で含んでいるのです。この地上での人類の進化の旅は宇宙規模の論理的な結論へと連れて行くと、「神性」への旅なのです。これ以上に明らかなことはありません。

私たちは神に成りつつあるのです。

【観念論:R > 0 の否定】
観念論とは、「外部世界」は心の産物であるとする哲学の立場です。つまり、次元性のある宇宙(r > 0)は幻想なのです。観念論の思想家たちによれば物質世界はこころから独立して存在しているのではありません。哲学者バークリーはこの主張の過激派です。物質世界は「神のこころ」にあるイデアとして認識されると論じました。私たち人間のこころは、神の想像により維持されるこの壮大な幻想の中に閉じ込められているのです。神が幻想を中止すれば、物質世界は瞬く間に消えてしまいます。この観点はヒンズー教の名残です。「神」-ブラフマン - が幻想世界(マーヤ)を作り、人間のこころは開明を得てブラフマンと一体化することでそれを克服するというものです。

イマヌエル・カントの"超越論的観念論"は次のような見解を示しています。人間のこころは空間と時間、原因と結果を外界において強要するように形作られている、と。つまり、これらは外界のれっきとした属性ではないということです。こころは見かけの世界 - フェノメナ - を創り出すのですが、それら自体 - 本体 - における事物の世界とはなんら関係はないのです。自身のこころから逃れることができないので、私たちは決して本体世界の正真正銘の知識を得ることができないのです。決して外すことのできない時間/空間と原因/結果のゴーグルをはめているようなものです。何であれ私たちは時間と空間、原因と結果をいつも見続けるでしょう。たとえそれらが事物の本当の性質とはなんら関係がないにしてもです。私たちが持ち得る知識はこころが創り出した現象についての知識であり、決して本体のそれではないのです。

本体世界は空間と時間の外部にあります。つまり、r = 0 に類似しています。ただし、カントにとって本体世界はまったく不可知なのですが、r = 0 はイルミニストにとっては完全に知り得るということを除いて。

カントの理論を根源的に前進させたのがショーペンハウアーです。空間と時間は別々の事物の見え方を創り出すのだが、この意味は空間と時間が存在しない本体の宇宙においては何事も別々ではないのだ、ということです。そのように彼は結論付けました。それぞれの個別の現象に対応し裏付けられている別々の本体を想定したのに対し、ショーペンハウアーは唯一の本体のみが存在し得ると気付きました。それを彼は"意思"と呼びました。その意思は抑えることができず、存在・生存するために永遠に努力するものです。たった一つの意思があるのだが、見かけの世界においてそれは現象世界の無数の事物として自身を顕現するのです。木、水、昆虫、岩、星、空気、人間。これらは全て存在しようとする単一の根本的で普遍的な意思の違う表現でしかないのです。人間は全てこの意思の具体化なのです。私たちの身体は対象化された意思なのです。ショーペンハウアーは言いました:「私の身体と意思は一つである」

ですので、ショーペンハウアーにとっては外部の、「客観的な」、物理的な時空間と因果関係のある世界があり、内なる、主観的な、「心的な」、時間、空間、因果関係の外部にある意思の世界があるのです。見かけの外界は幻想的であり、意思の内なる世界は万物が統一されているところの存在の真なる性質なのです。存在は、究極のむき出しの形式においては純粋な意思なのです。

世界が、本体的な真実に覆いかぶさる見かけの幻想的レベルのある意味通常ではない対になった性質を持たねばならないのは何故かについての説明をバークリー、カント、ショーペンハウアー、ヒンズー教、仏教は何も提供していません(神/世界の意思という説明以外には)(本体的な真実は通常、超越的な統一という観点で捉えられます)。

r > 0の物理宇宙の現実性を観念論は否定します。こころの幻想というレベルに委ねています。観念論はしかし、ファンタジーのように豪華な幻想によって仕えられる目的がどのようなものかを説明します。例えば、過去二・三十年に発見されたばかりの宇宙の奥深いところにある広大な諸銀河があるとすれば、これらを私たちの"以前の"幻想においてなんら役割を果たさなかったその諸銀河(その存在を私たちは何も知らなかった)を加えることによりどんな機能が果たされるのでしょうか。r > 0 の宇宙は現実でありそれについて科学は意味のあるれっきとした知識を与えてくれると結論したほうがはるかにシンプルです。私たちは正真正銘新しい物事を発見しますが以前まで私たちからは隠されていた大いなる幻想の新しい要素ではないのです。

科学的唯物論を信奉している人々は、一方で、観念論者とは反対の立場を取り、宇宙のr = 0 の側面の現実を否定します。

観念論と唯物論は共に決定的なことを見逃している過激な世界観です。真なること、それは r = 0(観念論)もr > 0(唯物論)も両方、正真正銘な現実の側面なのだということです。つまり、r >= 0という心的・物理的宇宙の側面なのです。

次元性のない存在を否定するという点で唯物論者は間違いです。そして次元性のある存在を幻想として見なす点で観念論者は間違っています。二つの主だった哲学の伝統を調停するのがイルミニズムです。次元性のある存在と次元性のない存在はともに現実的です。両者は共に幻想ではありません。それらはお互いに弁証法的に働きあい、お互いが互いに影響しあっています。r > 0 は心身にまつわることです。つまり、「身体」は「こころ」に影響されます。そしてr = 0 の宇宙は身体-精神的です。つまり、「こころ」は「身体」に影響されます。科学がこれまで浸透することができないでいる重要な神秘は、次元性のない宇宙を科学が否定することに起因します。同じように、多くの宗教と哲学(観念論に基づく)が陥っている愚かさは、次元性のある宇宙の否定によって引き起こされています。

次元性と無次元性、時間、空間、因果関係、個別化の原則(多者)が一方にあり、無時間性、無空間性、自由意志と相互接続の原則(統一)をもう片方とする両者の共存以上にシンプルなことはあり得るでしょうか。科学、哲学、宗教の問題は全てr > = 0 の宇宙では消し去られるのです。

太古より続く自由意志の問題を例にとりましょう。r > 0 の宇宙では、揺るがしようのない科学の諸々の法則や原因と結果によって見かけ上は制御されています。ここには自由意志の入り込む隙はありません。万物は逃れようなく一様に先立つ科学的な原因によって決定されます。ですが、r = 0 という宇宙の側面が導入されれば、科学的な時間、空間、因果関係の外側に存在するので、自由意志をあらかじめ排除してしまう原因のチェーンは崩れ去ります。そうして私たちの自由意志という経験は単なる幻想ではなく、大抵の旺盛な唯物論者が強く主張するのとは違うこととなります。

「死が運命付けられている」死は、時間と空間のr > 0 の領域では限りのある終着です。ですが r = 0 の宇宙、つまり時間と空間が適用されない領域においては、何事も本当の意味で途絶えてしまうことはないのです。万事は、ある意味、不死身なのです。

人間の頭脳はr = 0 の人間のこころのr > 0という表現です。ですのでこれによってこころへの頭脳の関連の神秘は解決されるのです。ですがもし人間のこころが宇宙のr = 0 の側面へのポータルであれば(ブラックホールのシンギュラリティが巨視的なポータルであることの比較として「微視的な」ポータル)、それすなわちこころは絶対的マインドつまり神のこころへのポータルでもあるのです。

人間のおのおののこころが全ての偉大なるこころに知らず知らずにして接続されていたらどうでしょう。想像してください。大抵の人々はそのような繋がりを想像だにしません。神秘主義者や秘教的なアートに精通した人々ぐらいしか神聖なるものへのこのチャネルを利用することを学んでいません。

私たちが寝る時、私たちは(大抵の場合)物理的なr > 0 の感覚をシャットアウトします。そして私たちは夢を見るのです。時間と空間は大幅に歪曲されます:死んだ人が現れることもある、あるいは超越的なビジョンを見ることがある。これはまさにr = 0 宇宙を通じて私たちのこころがいかに「自由に行き来」しているかを想定できることです。

Dream Gnosisと題した私たちの記事の中で「私たち」の夢について引用しました:

「ここはまさに私に起きたことだ。普段それを”神体験”と呼ぶのだが … 私はまず寝た。そして夢を見た。それは、それより先のことやその後のことよりもずっと鮮明に現実感があった。私には身体がなかった。名前も。そして特定のどこかの場所にもいなかった。アイデンティティーの感覚もなかった。一度に私はどこにでも居た。なにか見たいものがあれば、ただそれを思えばよかった。行きたいところがあれば、私はすぐにそこに居た。それはまるで私が全てになったような気持ちだった。なんでもそして全てを感じることができた。風が枝を通り過ぎる時に木がどう感じるかを私は知っていた(それはくすぐったいものだ)。木によって行く手を迂回させられた風がどのように感じるかを私は知っていた。猫のアゴに収まったネズミの気持ちが私にはわかった。女性として性行為をすることがどのようなものか、それも私にはわかった。戦った全ての命の体験を経験することができた。そして彼らの人生が終わった時、彼らの物語を体験した、そして彼らの物語は私の物語の一部となった。なにが起ころうと、万事順調だった。圧倒的とも思えるインプットの全てを私は自在に取り扱うことができた。

(以下略)



2015/07/12

宇宙のライフサイクル part 2(完結編)



part 1はこちら → http://neuerkosmos.blogspot.jp/2015/05/part-1.html
http://mathmonism.com/thelifecycleoftheuniverse.html

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訳注:
本文が非常に長く、完了するまでに2ヶ月かかってしまいました。途中で気力が潰えてしまい、後半30%は省略しています。今度からは適量の記事を選ぶようにします。


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(…) 人は夢の中で不特定の時間にわたって花を見つめることができます。そこには、機械的に測定された時間の経過はなくそのような感覚はありません。本当の時間はですから、心理のなかにアンカーされているのです。物理的なもののなかにではありません。

メンタルな時間はそれゆえ、ベルクソンがとらえた通りなのです。時計刻みの時間ではないのです。そもそも時計などないのですから。チクタクと刻むような物理的な存在はありません。そうであるにもかかわらず、それでも時間は経過します。今や時間は、あなたの注意が向くところによって計られます。つまり、心を集中している状態によって、です。空間も、物差しによって数えられるものではありません。夢の中でのように、距離は特定の時間においてあなたの心がそうあってほしいと思う心次第なのです。重要なのは、空間と時間は、メンタルな領域にまさに存在しているということ。だが物理的な領域における空間と時間とはまた別である、ということです。

夢という経験で私たちは異なることについてのアイデアを得るのです。無限のエネルギーの可能性を持った無限のマインドが物理的宇宙の創造に先立って存在していて、実存的な充満の状態を形成していたのです。これらの無限のマインドが無限のメンタルな空間を占めていたのです(それは物理宇宙との関係でいうと観測不可能なシンギュラリティであります)。そしてメンタルな時間の経過を体験していたのです。物理空間はメンタル空間に起源をもち、物理時間はメンタル時間に起源をもちます。ですが、よりベーシックな数学的起源を特定することができます。空間は実数に、そして時間は虚数に基礎付けられているのです。人間の心とは違い、宇宙の心は実虚数共に同等の重要さを持つものとして扱います。宇宙の心は数学的なマインドであり、それは数学的実体を私たちがするのとは違ったやり方で加工します。人間の心は考えます。「これはそもそも物理的な意味合いを持つものだろうか」と。答えがいいえ、である時にはその実体は棄却されます。負の数字はこれまで人間の頭脳を悩ませてきました。ちょうどゼロと同じように。あるいは無限や虚数と同じように。人間は同じ問題に苦しんでいたのです。つまり、人間の頭脳はこれらの数を物理的現実性の枠内で解釈することができないのです。科学的唯物論は、ゼロ以上無限未満の実数を扱うことに終始しています。虚数が物理学においては現存するのにそれは器官としての意味合いで理解されています。つまり、それは正しい答えを与えているのに科学者は誰もそれに物理的現実を帰属させないのです。微積分学の初期においては、形式主義はゼロをゼロで割ることに終始していました。これは数学的に一貫性のないこころみだったのです。ライプニッツ版であれニュートン版であれ、微積分学は正しい答えを与えたのだが、とても疑わしい理論的土台に立脚していたのです。バークリー主教は率先して嘲ったものでした。「もし幕を持ち上げて下をみれば...我らはそこに大いなる空隙を発見するだろう。暗闇と困惑を。否、もし私が間違っていなければ、直接的不可能と矛盾をそれらは有限量ではなく、また無限小に小さい量でもない。それでもまた無でもない。それらを逝去した量の幽霊だと言えないものだろうか?」

人間の頭脳は何が「リアル」かに執着しています。そしてその他のものは全て非現実なのです。ですので、ゼロや無限、負の数と虚数は全て非現実なものとしてみなされます。イルミニズムと科学的唯物論との違い。それは、イルミニズムは科学的唯物論が非現実的として定義する全ての数を存在論的にリアルだと見なしている、という点です。かようにシンプルなのです。マインド、すわわち心を可能な限りいかなる偏見や埋め込み済みのバイアスから自由なものとしてライプニッツは見なそうとしました。人間の頭脳・心は生来的に欠陥があり、考慮すべき心とは数学者のそれである、と彼は決めたのでした。宇宙的な数学者。感情やバイアスから完全に解き放たれていて完全に合理的理性的で論理的な数学的神。この神が負や虚数そしてゼロと無限をどのように作りあげたでしょうか。それらを完璧に理解する完全なる数学者として、彼はゼロ以上無限未満の実数に劣る現実性をもつものとしてそれらをみなすだろうか?虚数よりも実数を、負の数よりも正の数、ゼロでない数や無限以下の数を優れたものとして彼が好むのであれば、彼の充足理由は一体なんなのでしょうか。充足理由がもし存在しないのであれば、これらの数は全て平等な脚注上で扱われるべきものです。イルミニズムは数学的に定義するのであれば、「実」数よりも「複素の」数の上に現実が基礎付けられている体系(システム)として定義できます。複素数にはa+biという形式があります。"a"は複素数の実数成分としてあり、"bi"は虚数部分です。現実は実数というよりも複素数に関連付けられていると述べることは、虚数は実数と同量に存在論的にリアルだと証言することです。現実問題として、イルミニズムはまず「全ての」数は存在論的にリアルなものとして開始します。正確を期すると:ゼロ、無限、全ての字数と負の複素数は現実的な存在を有する、ということです。これはイルミニズムを科学的唯物論から隔てる根源的な差異であり、科学的唯物論が言わんとしていることは、実数のみがゼロよりも大きく、無限よりも小さいものは実存的重要性を持つということです。つまり、他の数は全て非現実なものである、ということです。科学的唯物論にとってこうした見解以外に充足理由はなく、彼らが取り扱う数以外の数の現実は捉えることができないのです。かれらは人間の頭脳を中心的基準に据えて、何が存在して何が存在しないかをその尺度で考えます。かれらは、科学者の偏見に現実は順応しないとダメだと主張します。これが科学を信念体系にすることであって、科学を科学たらしめないことなのです。虚数が科学と工学の等式の中において普及しているという事実を踏まえて、虚数は存在論的に非現実であると結論づけるとは一体何事なのでしょうか。なんらかの物理的重要性がないのなら、虚数はこれらの等式の中で一体何をしているというのでしょうか。それらがそこにある、という事実。これはそれらが非現実ではないと結論づけるのに十分な理由なのです。間違いやすい人間の頭脳や騙されやすい人間の感覚ではなくて数学に現実を決定してもらいましょう。科学の唯物論的なバックグランドを持ったイルミニストが痛烈に科学的唯物論に敵対したのはなぜでしょうか。合理的な人々がキリスト教からも離れたのは同じ理由からでした。つまり、「真実」です。科学的唯物論は狂信的なイデオロギーにして信念体系です。至上の善として真実の追求を宣伝するのだが、唯物的なパラダイムと矛盾することがあればなんであれ拒むのです。教条的に。人間の感覚から、そして人間の思考様式から宗教を作り出すこと。それが科学的唯物論の実態です。科学は、証拠の不在を不在の証拠である、とします。科学の知識や設備で検出できないものは全て存在しない、と科学は言い切ります。つまり、「感覚的に」人間に覚知される<現実>に接触してこない限りは存在しないのです。感覚的データが現実として優遇されることについての十分理由はあるのでしょうか。さらに、感覚的データは物質的な現実を実際に反映しているのでしょうか。ここで再び、赤という色についての質問に回帰できます。それは物質的には存在していません。いわば心的な知覚・認知なのです。物質的な現実性をそれは全く持たないのです。科学的唯物論はどうやってそれを説明できるでしょうか。
数学、つまり暗闇のなかで防音の効いた部屋で外部からの感覚的インプットのない状態でたった一人で実行される純粋思考の領域である数学において、数学という手段で現実にアプローチすることが最善であるとイルミニズムは主張します。そのような思考においては、純粋に抽象的な思考は現実から切断されているでしょうか。それとも、現実は根本的にそして究極的には物理的ではなく心的なのであるから、それは現実への最も純粋な関わり方なのでしょうか。科学的唯物論は好んで数学を道具として用いますが、それを現実的なものとしては扱いません。それなのにどうして数学が現実を果たして反映できるでしょう、現実がそれ自体数学的ではない場合に。私たち自身がなんらかにおいて数学表現の一つではない限り、ことごとく数学的であるこの現実をどうして私たちは理解できるでしょうか。物理学ではなく数学が現実を定義するのであれば、実験データと知覚可能な証拠から解放されます。言い換えるなら、人間の制約から解放されるのです。物理学はanthropic - 人間が中心 - という観点から現実理解を進めます。なぜなら人間の感覚を中心的な土俵として位置づけるからです。物理学が依拠する「観察」は生来的に人間の感覚に頼っています。でもなぜ現実がanthropicでなければならないのか。これはほぼアブラハム的な立脚です。
十分数学的ではないので、また極端に人間中心的なので、そしてまた経験主義を合理性の上にまで持ち上げてしまったので、イルミナティは科学的唯物論を拒絶しました。現実理解のためには現実の鍵となる材料を特定しなければなりません。その鍵となる材料は人間の感覚でしょうか。それとも数学でしょうか。前者がそうであるならば、現実は人間の感覚にとって明らかになるものすべてがそうであり、明らかでないものはすべて存在しないのです。もし数学がそうであるならば、人間の感覚は多かれ少なかれ直接的な関連性はありません。人間の感覚は下地になっている数学的現実へのヒントを与えたりまた明らかにする手助けとなる限りにおいて利用価値があります。数学が現実であるならば、「すべての」数は現実的(存在論的)であることになります。これにはゼロや無限、虚数と負の数も含みます。ゼロが現実的であれば、科学的唯物論は反駁されることになります。ゼロが現実的であれば、マインドはリアルなのです。感覚はたんにマインドにデータを供給するという目的のために存在しているので、そういう単純な理由で感覚はマインドを検知することができません。目はすべてを見ることができますがそれ自身を見ることはできません。マインドはマインド以外の全てについての感覚的情報を集めることができます。ゼロが存在論的な現実であるとき、そのときそれによって全宇宙が説明されます。ゼロが万物の下地になっています。ゼロはまさにマインドの数学的表現なのです(デカルトによる心の定義「外延されてないもの」と共存しているマインドです)。

存在論的ゼロを科学的唯物論は拒絶します。人間の感覚が最高の重要性を持つのでそれは数学という根拠を使用しないのです。現実とはなにかをなぜ人間の感覚が支配しなければならないのでしょうか。愚かなことです。偏見のあるバイアスのかかった人間中心的な世界観からイルミニストは人類を解放します。
数学は全体として中性的です。全マインドは、宇宙の地球外種族の全ても含めて一つのことに合意できるはずです。すなわち数学です。自身特有の感覚で世界との関連を持つことに彼らは賛同できないでしょう。人間の感覚は地球上の魚類、アリ、その他の生物の感覚とは違います。ですので、絶対的現実を捉える基礎となるのが感覚である、ということは可能でしょうか。どうやって可能となるでしょうか。でも魚類もアリも人間も、数学については合意できるでしょう。数学は種においても中性的なのです。特有の立脚点を優先させることはありません。最も中性的で可能な限り合理的な立脚であるもの、すなわち数学、から絶対的現実を眺めること以上に適切なものはあるでしょうか。
「神の」視点とはなんでしょうか。人間のそれでしょうか、それともそれは数学でしょうか。イルミニストは現実を数学的に見ることをはるかに合理的でロジカルで、客観的で、「マインドと種について中性的」で、独立的で、力強く説得力があるとみなしています。かたや科学的唯物論は人間の感覚を、人間流の考え方を、そして「実」数を本物として「虚」数は非現実的であるとみなし、崇拝しています。(ヒントは名前の中にある!(訳注:???))合理主義者として、実際にはハイパー合理主義しゃとして、こう言うことができるでしょう。つまり、我らは科学的唯物論よりはるかに合理的ななにかを見つけた、と。すなわち「存在論的数学」を。

(以下20-30%略。)
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2015/07/09

イベントが起きるのを待つだけ

2015年7月9日(木)の現時点において、

①中国株が暴落 
②日経平均株価も600円強下落
③ニューヨーク証券取引所( NYSE)が閉鎖 
④ギリシャが債務不履行を国民投票で決定(61%の得票率)

このような感じでドミノの一つ目が倒された。イベントへと無事に続いてくれれば有難い。<<目覚め3.0>>を経験すれば宇宙規模で考え世界規模を俯瞰することが可能となる。

イベントとは?その総括と展望